8月9日「長崎原爆記念日」の由来と歴史、なぜ長崎に原爆が投下されたのか?
2019/11/13
第二次世界大戦のとき、原子爆弾が日本に投下されました。
その被害を受けたのが、広島と長崎です。
広島は8月6日、長崎は8月9日です。
しかし、広島はもともと原子爆弾投下の予定地に決められていましたが、2番目に原子爆弾を投下される予定の土地は長崎ではありませんでした。
では、なぜ長崎はこの痛ましい悲劇に陥ってしまったのでしょう?
今回は「長崎原爆記念日」の由来と歴史、なぜ長崎に原爆が投下されたのかをお話しします。
「長崎原爆記念日」の由来と歴史
1945年(昭和20年)8月9日11時2分に長崎に原子爆弾が投下されたことによります。
同年8月6日8時15分投下の広島に続いて国内2か所目の原子爆弾投下となりました。
この2回の原爆投下が第二次世界大戦への降伏が決定したともいえます。
この時の被害については、長崎の人口24万人に対して、死者行方不明合わせて7万3884人と言われています。
これが被爆後5年で14万人にのぼります。
私は長崎で生まれ育ちましたので、小学生の頃は8月9日は夏休み中にもかかわらず毎年登校日でした。
学校の体育館で戦争映画の上映でした。
そして、午前中で学校が終わり、帰宅途中の道の途中で11時2分のサイレンを聞いていました。
その場で目をつぶって黙とうしていたことを思い出します。
長崎に原子爆弾が投下された理由
数ある日本の都市の中から、なぜ長崎が爆弾投下の目的都市に選ばれたのか?
その理由は、
- 戦艦「大和」と同型の「武蔵」を造った三菱造船所があったから
- ハワイの真珠湾攻撃時に使用された魚雷を造った三菱兵器製作所があったから
- 当初の目的地であった広島や小倉に比べて都市の規模が小さく、捕虜収容所があったので広島や小倉に続いて第3目標になったと言われています。
アメリカの将軍の中には長崎は地形の面や度重なる空襲があった都市であることから原爆投下には不適と反対した人もいたが、スチームソン陸軍長官が政治的判断であると言明した。
その結果、長崎を目標値に進言したのは、米陸軍航空部隊指令長官のヘンリー・H・アーノルドだったと言われています。
また、第2目標地であった、小倉は当時天候不良のため、見通しが悪く
ぎりぎりになって断念され、急きょ長崎に変更されたとの話もあります。
実際には、軍事的な要素や、環境的な背景、歴史的な要素が絡み合っていて、何が真実なのか定かではないし、推測するしかないこともあります。
戦争なんて二度と起こってはならないと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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